あっと驚く!?
あっと驚く!? 世紀の大番狂わせ、史上最強の一発屋……彼を語るうえで、この言葉は外せないだろう。だが、本当にしっくるくるのは『あっと驚く』に違いない。彼の名は、ダイユウサク
馬主の孫、『耕作』にちなんで『ダイコウサク』とするはずが、手違いからダイユウサクとなった。
当時は登録申請が手書きだったために、ユとコを間違えたと言われている。それでも、デビュー後も名前の変更が可能だった時代。だが、そのあまりに不甲斐ない成績から、孫の名前を付けるわけにはいかないと、ダイユウサクのままになった。
牧場でも目立たない馬だったし、体質的にも貧弱だった。そのため、デビューが4歳の10月となった。だが、結果は1着馬から13秒遅れての最下位。二戦目も、7秒以上遅れての最下位。どちらもタイムオーバーに相当する散々たる成績だった。
結局、ダイユウサクが初勝利を挙げたはデビュー5戦目、これに勝てなければ強制的に引退となるギリギリのところでだった。ちなみに、5歳になっていた。
そこから、少しずつ変わり始めた。
とんとん拍子に2勝目、3勝目と勝利を積み重ね、ついに重賞に挑戦するものの、結果は、7着。まだまだ、上では通用しなかった。
この後も、上位に食い込む好走を続けた。
昇り調子のまま、6歳を迎える。
格上挑戦と自己条件戦を繰り返し、つにオープンへと上り詰める。ここまでで22戦を費やした。
初挑戦のG1レースとなった天皇賞秋は、7着と敗れたものの、6着のオグリキャップと半馬身差だったことから、大きな期待の持てるものとなった。
7歳、ベテランの域に到達したダイユウサクは、年明け最初の重賞である金杯を制する。初の重賞タイトル獲得に、陣営は湧いたと言う。だが、この後に裂蹄を発症し、休養を余儀なくされた。
復帰後も好走を続けた彼は、年末のオープン特別に勝利し、JRA推薦馬として有馬記念の出走権を手に入れることとなった。
そして、これが日本競馬史上最高の下剋上の始まりだと、どれだけの人間が予想していただろうか?
世代の中心である、トウカイテイオーやレオダーバンなどが故障により出走を回避。その中で人気を集めたのが、天皇賞を降着という不名誉の結末となり、ジャパンカップでも敗北し、勝ちから見放されていたメジロマックイーン。単勝1.7倍。
一方ダイユウサクは、15頭立ての14番人気の137.9倍。ブービー人気とはいえ、見向きもされていなかった。
レースは、最後にドラマが待っていた。
最後の直線、それまで中団に待機していたダイユウサクが内ラチ沿いを強襲。早めに抜け出したプレクラスニーを並ぶまもなく抜き去り、後方から追いすがるメジロマックイーンを1と1/4馬身で振り切ってゴールを駈け抜けた。
有馬記念史上初の単勝万馬券にして、当時のコースレコードを更新した。このレコードは、シンボリクリスエスが更新するまで、実に12年間保持された。
馬主すら信じていなかった勝利に、この日の中山競馬場は大いに沸いた。
翌年、現役を続けるも、年間を通して一度も掲示板に乗ることはできず、そのまま引退となった。
引退後、種牡馬となるも一発屋のイメージが強すぎ、後輩相手は殆ど現れなかった。その結果、残した産駒は僅か17頭だった。
種牡馬引退後は、繋養牧場で余生を過ごす。ニッポーテイオーやウイニングチケットと仲が良かったそうだ。
一世一代の大駈け、それも派手な花火をあげるなんて、大物の役者だと思う。
愛すべき一発屋、それでも、彼を超えるほどの大きな花火をあげる存在は、そうそう現れるものではない……。
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